公益財団法人アパ日本再興財団主催 第十一回「真の近現代史観」懸賞論文受賞者発表
優秀賞(学生部門)沢田 輝 東京大学大学院 総合文化研究科広域科学専攻 博士課程3年
『「選択と集中」から「分散と底上げ」へ –富饒な大国日本を再興するために』
12月か1月くらいに本文がウェブ上で公開されると思いますので、それからコメントすればよいかと思っていたのですが、だいぶ騒がれ始めているので、いまのうちから…
正直に言って、優秀賞に選ばれるなど、全くもって想像してませんでした。
学生の応募がたまたま僕しかいなかったのではないかと疑っているくらい、今でも自分でもドキドキしてます。
Twitterで「アパホテルはこんなこともやってるぞ」と懸賞論文の情報が流れてきたのを見て、賞品の豪華さも合わせて目を引き、夏の間、研究で忙しかったけどスキマ時間に気分転換のつもりで短時間で書いた文章でした。
現政権に親しい国会議員の方々やその他メンバーの方々の目に「"選択と集中"はやばいよー」というメッセージが触れるだけでもいいなー、
内容読まれなくてもタイトルだけでも目に触れてくれたらいいかなー、
10本選ばれる「佳作」にでも引っかかってくれたら20万貰えていいなー、
という"軽い気持ち"で応募してみました。
それでも、今回の審査委員の中には伊藤隆先生など大物歴史学者もいらっしゃるようですし、
こんな粗雑な歴史観は門前払いじゃー、となるんじゃないかなどとビクビクしてました。
もっと言えば、本業の学術論文では考えられないほど自由奔放なことを書いてるよな、ということを気にしていました。
まぁ、論文という題名にはなっているとはいえ作文に近い懸賞論文であって学術論文とはまるで性格が違うので、あまり細かいことは気にせずに自分の書けるものを素直にサクッと作文しようという路線でいきました。
中身についても、歴代の受賞者の方々のように"典型的で勇ましい文章"を書く才能は無いし第二次大戦前後の日米中朝の事情にも全く詳しくないので、遠慮なく思想方向の左右を問わずに問題点を挙げてます。
特に最近問題視されてる日本スゴイ論や懐古趣味へすがる態度に対する批判は強めに書いたつもりです。
読んでいただければ分かると思いますが、けっこうトリッキーな文章です。
アパホテルやその書籍事業がインターネット上で「右翼!」等と騒がれていることについては知っていたので、 「沢田さんも右翼なんですか?!」みたいなあらぬことを言う人が現れないように、内容にはけっこう注意を払ってあります。
一部のレッテル貼りが大好きな人はアパ論文に表彰されたというだけで極右扱いなのかもしれないけど、とりあえず中身を読んでから判断してみてください。
ネット上ではアパ論文事業の賞品の豪華さから、「魂売って論文書こうかな」などという意見がたくさん見られますが、少なくとも僕は魂を売るような内容の文章は書いていません。
そもそも、思ってもない嘘を6000文字近く書くなんて芸当は僕の文才ではできません。
懸賞論文の募集要項にあった「日本の活性化に役立つ提言」について、ただ純粋に「未来の日本が豊かな大国であってほしい」という希望を素直に書いて、それが歴代の受賞者とはだいぶ違う方向性だったにもかかわらず、表彰していただけた、ということです。
なので、「アパホテルは陰謀論!極右!」という人こそ、真正面から日本を良くするための論文を投げかけてみてはいかがでしょうか?
先に述べたとおり、学術論文とはかなり違う作文なので、中身の史実や論理構成などもだいぶユルユルですし、いろいろと修正すべき事柄があるはずです。
特に歴史学や社会科学、経済学などをちゃんと研究している方からは、沢山の批判やツッコミを入れられてしかるべきでしょう。
まともに書こうとしたら、引用文献の数は100は超えてしまう内容です。 人文科学の研究手法に触れたことがあるわけでもないので、流石に余暇時間で書くにはあらゆるものをリサーチしてデータソースの確認取るのは…。
むしろそれができるなら、人文科学分野でダブルディグリーでも目指しますよ…。
12月か1月くらいにネットで全文が公開されると思うので、何なのか興味を持った方は読んでみて、たのしんでいただければよいかと思います。
表彰していただけるくらいにはコンテンツ性の高い文章になっています。
1つの読み方としては、僕の文章と歴代の受賞者などを比べてみて、「何が書いてあるか」よりも「何が書かれていないか」へ特に注目すると面白いかもしれません。
12月7日には受賞記念パーティーがあります。
色々と有名なアパ社長夫妻はもちろん、国会議員を含めてその他様々な人たちが沢山参加するそうです。
主に安倍政権に親しい人たちだと思います。 平成の最後に続いた長期政権である安倍首相のまわりで、様々な人達がどのようなことを考え、話し合っているのかを、テレビや動画などの遠くからではなく、間近に実際に触れる機会ができたことは良かったと思います。
ちなみに、今後何かこういう文章を書く予定は全くありませんし、これ以上良いネタも当面は思い浮かばないです。
こういう文章を毎月のように書ける才能があれば、研究者をやめても作家などで稼ぐことができるかもしれませんが、残念ながら僕には全く無理です。
こういう文章よりもちゃんとした学術論文を書くことのほうが僕には向いてるな、ってことを改めて認識させられたのも、今回の良い経験だったかもしれません。 締めの言葉みたいなものも思い浮かばないから、最後に、僕の出身中学校の校歌(坪内逍遥 作詞)を引用しておきます。
われもとより国家を愛す
博愛 正義もわれらが標語
さもあれ心に誠しなくば 根のなき浮草
かれまず唱う 誠 誠 誠
~~追記~~
どうやら全文がウェブ公開されたようなので、この文章に対して、ゆるふわに感想を述べておきます。ちなみにこの文章は、受賞してから事後的に思った感想です。
そもそもあの文章は無視されると思っていたので…
・歴史は研究対象、歴史観はコンテンツ
歴史は、高い専門性を持って史料に基づいて研究する対象です。
過去に戻って実際に見ることもできないし、実験で再現することもできないので、結論には常にある種の曖昧さがつきまとうものだと思います。
一方で、歴史に対する研究成果の中から、なんらかの物語を見出したのが歴史観かと思います。
歴史観を個人的に楽しむでも、自分の人生のなにかの指標に据え置くでも、個人の自由なのですが、基本的にはコンテンツだと思っています。
なので、本質的に国の運営にどうこうしたりするようなものではありません。
そういうわけで、私のあの文章はコンテンツとして書かれています。
もちろん、大幅なウソがないように当たらずといえども遠からずに収まるように、また、歴代の受賞者の文章のような無用に"勇ましい"事は避けて書くように努力はしました。
意識したのは、『シン・ゴジラ』みたいな、この国はまだまだやれる!的な爽快な読後感を出そうというところですかね。
そして、審査員が全員70歳以上の男性であるという点を踏まえて、UXを良くするためにカタカナ用語を可能な限り排除しています。
排除しきれなかったカタカナ用語(和語・漢語での言いかえが一般的でないもの)は、文中での「望ましいもの」「望ましくないもの」の2分の中で後者になるようにデザインしています。
こだわった点はそのくらいで、他の部分は、前半は学部の頃の文系教養科目の小レポートを提出前日に慌てて書いたような感じで、
後半は最近のツイッターで無難に数百ふぁぼくらい稼ぎそうな"主張"の繋ぎ合わせと、グローバルリーダー論やアントレプレナーシップみたいな流行モノをミックスして作り上げたものです。
あと、日本語の作文で真面目に書くもので論文以外と言ったら、基本的には科研費作文みたいなのばかりになるので、どうしても無意識に"口調"というか"技法"というかがそれに寄ってしまうんだけれども、それはなんだか高評価だったっぽいです。
加えて一部は、彼らへの""サービス""で書いた表現もまぁあります。
ともかく、「選択と集中はやばいよ」っていうおはなしが、審査員のお爺さま方や政権に近い国会議員の方々の目に触れたら良いな、というのを目的に書いてました。
そうして出来上がった内容としては歴代の受賞者とはまるで違う方向になったにもかかわらず、なぜか受賞してしまった、それで思ったことをここにちょっと感想文として書いておこうと思います。
・ケーキとコスメの話をしよう
いきなり歴史観とかの話をしてしまったので、いったん気楽にケーキとコスメの話をしたいです。
僕の好きなケーキ屋さんにFOUNDRYというのがあります。
軽井沢に本店があるそうですが、都内や近郊のデパ地下等にいくつか店舗を持ってます。
FOUNDRYは旬の果物のみを使うケーキ屋さんで、時期によって品揃えが大幅に、というか丸で変わります。アップルパイとその他果物フリーの一部の焼菓子以外、定番メニューが無いんですよね。
衝撃的に軽やかなケーキ生地と生クリームなので、いろんな果物と相性が良くて大変美味しいのですよ。一方で普通のケーキよりも乾きやすいのが難点。
で、FOUNDRYのウェブページを見てみると衝撃的で、定番のアップルパイ以外に商品の具体的な情報が何1つ載ってないんですよね。
http://www.foundry-karuizawa.com/brand/
載っているのは店舗の位置と、おしゃれな写真と、Our story(私達のストーリー)というページだけ。
実際に店に行ってみても、小綺麗な販売スペースで淡々と旬の果物のケーキを売っているだけで、商品内容の目立った説明や能書きとかはほとんど無いんですよね。
ストーリーへの共感と味の口コミに全部をかけて商売をしているケーキ屋さん、という感じのようです、FOUNDRY。
次に、コスメの話をちょっと。
自分ではコスメなんて使ったこと無いので全然わからないので、コスメについて語られているものの引用を1つ。
僕の好きなツイッタラーにりょかちという方がいるのですが、なぜ好きかというと、自撮りが可愛いとかいうのも無くはないんだけど、ともかく彼女の書く文章がすごく面白いんですよね。
それで、紹介してみたいコスメについて書かれた文章がこれ。短いのでサクッと見てみて。↓
https://www.advertimes.com/20171011/article258500/
これがどれくらい一般性のある情報なのか知らないけれども、Twitterで見ていると少なからぬ人たちからの共感を得ている様子です。
これを最初に読んだ時には、そうかーそうやってインフルエンサーを見つけてインスタをチェックしながらモノを買う人達がいるのかー知らんかったなあ…っていう、新鮮な感動が得られましたね。
彼女はこれだけでなくていろんな文章を毎週のように更新しているのだけれども、いつも、自分の知らない世界の人達について新鮮に語っているので、とても好きです。
・軽いクイズをしましょう
アパ論文の話はいつになったら出てくるんだと不安な方もいるかも知れませんが、そのうち出てきます。でも歴史観はたぶんもう出てきません。
それはさておき、ここでクイズをしましょう。
問. 以下の私の友人(バリ理系男子)とその嫁(非理系天然キャラ)の会話文を読んで、空欄[ ア ]に当てはまる発言を推測しなさい(10文字以内)。
ネット記事 ((【衝撃】エビの殻とゴキブリの羽はほとんど同じ成分!!!!))
嫁「やーだーーーキモいーーー」
友「落ち着けよ、そんなこと言ったら人体の6~8割は水だけど、俺達は水ではないだろ?世の中そういうものだって」
嫁「でも、[ ア ]?」
友「お、おぅ……」
正解は
「でも、[ 水はきれいじゃん ]?」でした。
この話を友人から聞いて、僕はえらく感動してしまいました。「その発想はなかったは」と。
こうやって偉そうに出題したけど、理系としての物質感覚が身に染み込んでいる僕自身はこのクイズを絶対に解けなかったと思います。
毎日大学に来て理系の人としか触れ合わず、たまに会う友人も含めてほぼみんな気の合う人としか会わないと忘れてしまうけど、
同じように暮らしていても、本当に見るものすべてがまったく想像できない見方で見てる人が普通にたくさんいるんだな、
ってことを強く認識させてくれたので、この話を僕はとても気に入ってます。
・優れていて劣っていて、数だとかレベルとか
何が言いたかったかというと、""この世には自分の想像の範囲外の人がたくさんいる""ということに自覚的になるところから始めるしか無い、ということです。
学術的な手順に則れば何が正しいかを客観的に論証することはできるけれども、実際の世の中の様々なモノやコトは、正しいとか正しくないとか、優れているとか劣っているとか、そういう基準で判断されているわけではないようです。
旬の果物であって、インフルエンサーであって、でも水はきれい、なんですよ。
ともかく、自分とは全く違う世界観でものを見ている人がいます。たくさんいます。
どんなに言葉を尽くしても、あるテーマについて理解し合うことがそこはかとなく難しい人が普通にたくさんいて、でもそういう人との間であっても違うテーマについては難なく会話して、「白飯にイクラをたくさん載せると美味しい」みたいな会話を、一緒に楽しんだりもできる。
そういうことに深く自覚的になった上で、自分の先入観を取り除いて観察を深めていかないと、思考の土台が崩れてしまう気がしますよね。
繰り返すけれども、もはや正しいとか正しくないとか、そういうレベルの争いではないところに主点はあるんだと思います。
まずはそこの認識から始めないと、現在の社会であらゆる面で行われている奇妙な党派性と物量戦の議論もどき泥沼から抜け出すことはできないと考えています。
・科学も思想も芸術も平たくコンテンツとなる世界の片隅で
既にそういう世界になっていると思います。それぞれの発信者がどんなに自分たちの営みが崇高であると信じていても。
僕もいまの現状を完全に良しとはしないし、きっと未来にはもっと良いシステムが出来上がるとは期待したいです。が、かつての学術研究にあった権威主義への懐古に基づいて現状を「消費社会の蔓延によって…」的なことを述べる人もあるけど、あまり賛同できません。
そうはいっても、僕だってちょっと前まで理系知識に関してほとんど同じようなことを思って、世の中に対して憤慨していましたよ、こんなかんじで↓
Togetter 大衆と理系知識
でも、それも意味無いよな、って割と最近考え直しました。
自然科学研究はこの世界における人類未踏の知識を探る崇高な営みである、と自分らでは思っていますし、そのつもりで研究してます。
「地質学をやっていて…」と言った時に、世間の人に「じゃあ地震とか噴火止める方法発明してよハハハ」みたいに言われると、悔しくは思いますよ。
それでもなお自分らのやっていることを説明していく義務が生じるわけです。
そういう人たちにも、自然科学研究の必要性をどうやって主張したらわかってもらえるか我々は模索しなきゃいけないという状況に多々さらされるのですが、やっぱり彼らに共感することから始めるしか無いのだと思っています。
念のために言っておくと、ここでいう共感とは、同意ではないし、同情でもないし、妥協でも譲歩でもなければ配慮でもない。ココ重要です。
・暗闇は無く、無知があるのみ?(流行らんわ)
思えば理工系というのは色んな分野があるけれども、ともかく半世紀くらいに渡って「専門外にもわかりやすく話せ」という圧力にさらされ続けてきました。
これは理工系の知識が世間においてほとんど理解されてないけれども利用はされていて、その中で社会において公害や戦争など目に見える物理的身体的苦痛を生み出してしまった点に起因するとは思います。
一方で、人文社会科学の知識が何かそういう目で見てわかりやすい被害を生み出してきた事はこれまでありませんでしたよね。
それがここに来て、これまで教養とか民主主義とかの絶対に正義なパワーワードで守られてきた人文社会科学の知識も、1週遅れでこれまでの理工系と同じ状況にさらされているのだと思っています。
理工系の知識の説明については、放射線とかワクチン拒否とか、今もなお解決できない問題が続いていますが、いかにして内容を損なわないように、それでいて元素名とかを見ただけでも頭痛、湿疹や吐き気などの症状が出そうというような人にも拒絶感を持たれないように説明するか苦慮させられています。
元素名くらい義務教育範囲だ教養だ、って言う理系人も当然いるし、僕もアタリマエのことで知っておいてほしいとは思うけれども、それを言うと「上から目線だ」などの非難がすぐに飛んできたりするわけですよ。
元素名くらいそこらへんの山とか川の名前と同じやん…みたいに思ったりするんですが、そうはいかないんですよね。
理解していただけれように努力するしか仕方ない場面にも出くわしますよ。
同様に人文社会科学も、基本的人権とかアタリマエだし義務教育で習うし何に反対しているのかわからないかもしれないけど、そういうところで突っかかっている人たちに理解されるためのデザインを磨かないといけなくなってしまっているのではないでしょうか。
アパ論文界隈という「"勇ましさ"1丁目1番地」みたいな人たちにすら、短時間にちょっと工夫しただけで、彼らの日頃の主張とはだいぶ違うはずのものを、案外すんなりと読まれる事ができてしまった。
今回のアパ論文はノリと勢いで稚拙な手段を使ってしまったことを申し訳なく思うけれども、どうやらデザイン次第ではわりとイケるらしい、ということは微かにではあっても希望だと思います。
・古びた仕切りは取り払われ、匠の技によって新たに居心地の良いストーリーが…!
既に散々指摘されてるのでいまさら私が言うまでもないのですが、「専門家に検証された事柄」よりも「口当たりの良いストーリー」が好んで選ばれる世の中になってます。
そういう相手に向かって、自分の考える「正しい主張」を投げかけても、いくら数多くの検証を耐えてきた「事実」を投げかけても、虚しい結果に終わることを、多くの人たちが嫌というほど見てきましたよね。
メディアリテラシーとか教育とか、色々と対策が言われてきたけれど、子供や若者など次世代の育成には効果があっても、すでに社会的地位を確立してしまっているような中高年に言っても響く様子はあまり見られません。
まして言えば、前世紀に分類された思想、主義主張、価値観などによる仕切りは、21世紀に入ってから何ら重要な意味をもたらしてこなかったんじゃないでしょうか。
反知性主義、教養の劣化、人権意識の欠落…などなど、色々とそれっぽいことが言われてきたけれども、もちろん知性や教養や人権は大事だけど、残念ながら実際にはそれらも仲間内での"高め合い"のようなものにしかならず、遠い外部へリーチして具体的成果につなげることはあまりできなかったわけです。
すべては単なるコンテンツでしか無くなっているのですよ、既に。
もちろん、正確な情報の発信努力は否定しません。当然。
でも、どんなに高い巨人の肩から見渡した景色も、精緻に検証した事実や論理も、外から見ている人たちの多くにはわからず伝わらず、その真価を正確に伝えきることは現実的ではありませんね。
例えるならば、高品質高性能を謳って海外に売り出したのに、ちっとも売れなかった日本の大手家電メーカーのように。
結局のところ、自分の主張に反対する人たちにとってこそ、手に取りたくなるようなストーリーをデザインし発信していくしか無いのです。
今までパソコンなんてこわくて全く触れなかった高齢者がiPadなら触れてみたいと思った時のように。
だからといって、そういうデザインを課題の当事者にやれと言うのは、あまりにも酷である点は激しく同意するし、そもそもそういうデザインが実際に一長一短でできるような芸当でもありません。
反対意見(しかも往々にして過激で強面)の中から共感すべきポイントを探り出し、課題の再定義をしていく作業は気の遠くなるほど労力がかかります。
じゃあ誰がやるって?
そういうわけで、出番ですよ、社会学者のみなさま!
・オペラのような悲劇には、ミラクルのような喝采で
ちょっと前に、何がきっかけだったのか忘れたけれども、Twitter上で社会学では査読論文なんてほとんど書く必要は無い、みたいな発言である社会学者が炎上してました。
僕も、全く社会学はけしからん、って思って眺めてましたけど、今、ちょっと反省しました。
いや、それでも論文を書く能力は必要だし、定期的に書くべきだと思うけど、理系の多くの分野のような年N本publish or pelish以外にも、もう少し選択の余地を与えてもいいかなって思います。
イメージとしては、建築学科の教員が論文だけでなく建築物が業績になって、業績欄に「~氏宅」とか「○○庁舎」と書かれてたりするじゃないですか。
あれに近いような感じで、社会学者に何か仕事してもらえないものだろうかと期待したいです。
社会学とか看板にこだわる必要はないので、何学者でもいいんだけれども、基本的に営利目的の商売には乗せられないという点でやっぱりアカデミアのどこかがやるしかないし、どうしても人文社会科学の深い知識が必要になるでしょう。
これまでも彼らなりにやってたのだと思うけれども、その多くは一方の視点に寄り添ってその側から見て好ましい言葉を自己増幅的に選んで活動するようなものが多いように見えます。
その行き着く先として、自分らの主義主張を押し通すために自分らの声を拡大して振りまく政治活動、みたいなことになってしまっていた人が少なからず発生してしまった点も否めないでしょう。
そうではなくて、課題の当事者の発信から、いかにして多くの人に手に取られ広まっていくデザインを作っていくかということに注力したものを目指したら良いんじゃないかと思います。
自分から見たらこんな課題は解決されて当然だろ、って思うようなことでも、反対する人がいるから課題になっているわけで、まずはそのことに共感を探るところから初める必要があります。
そういう意味でいくと、SF作家のような能力が必要とされているのかもしれません。
個人的に好きなだけだけど、最近にわかに流行している柞刈湯葉さんの小説とか読んでみたら良いかもね↓
自分の先入観や価値観を排除した上での当事者の観察を通じ、より手に取られ受け入れられやすい形に近づけていくような作業です。
スマホを作った人がスマホユーザーの生活スタイルに共感しないと開発が進まないけど、だからといって同じ生活をしなくても良いのと同じです。
カタカナや外来語をなるべく使わない、とか、その程度からでも良い。元素名を使わない、みたいな感じで。
課題そのものの先入観にこだわらず、もっと広い範囲の視点から設計してもいいとも思います。匠の技によって新しく明るいリビングが!みたいな感じで。
左右リベラル保守革新日本人外国人民族種族人種マジョリティマイノリティ理系文系男女伝統技術既婚独身オタク問題児鼻つまみ者厄介者…そんな仕切りや分類は、もう超どうでもいい。
そもそもこういう分類の多くは、資料や制度の検索が便利になるようにつけられたタグのようなもので、誰か人を分類して当てはめていくようなものではないですよね。
まして言えば、自分の言動を固定するための鎧のようなものでは決して無いはずです。
課題を解決しよう、それだけを考えよう。そのために必要なものはなんだって取り入れたら良いし、自分の肩書や分類にこだわらなくていい、そういうふうに思っています。
・入れぬ道も費やした歩数を裏切らず繋がっている
中途半端なようだけど、力尽きたのでこのへんでおしまいにしようと思います。
なんとなくではあっても、アパ論文で表彰されるああいう文章を書く大学院生が何を考えて日々暮らしているのかをそれとなく感じ取っていただけたなら幸いです。
ちなみにこの感想文は、好きなものから何気なく思ったことを引き出していく、ということをヘタクソなりになるべく試みたコンテンツです。
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